2015年08月02日

キリストを着る

※週報に掲載の説教要旨をブログ用に変換して紹介し
ています。聖書の引用は口語訳を使用しています。
(信徒S)

「キリストを着る」 伝道師 八重樫捷朗

ガラテヤの信徒への手紙3章21〜29節

「キリストに合うバプテスマ(洗礼)を受けたあなた
がたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ
人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女
もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって
一つだからである。」
(ガラテヤの信徒への手紙3章27〜28節)

キリストにあって、洗礼を受けてキリストを着ている
私たちは28節の恵みの宣言(キリスト・イエスにあっ
て一つ)を告白できるでしょうか。この宣言は初代教
会の洗礼式における伝承を基としています。パウロは
ギリシャ人、つまり当時の改宗した異邦人クリスチャ
ンもユダヤ人クリスチャンも同じであり、差別しては
ならないということを巡って、ガラテヤの信徒への手
紙を執筆しました。洗礼を受けてキリストを着ること
によって、私たちの世界でどうしても超えられないよ
うな線を超えて1つになることが出来るとパウロはい
います。

「キリスト・イエスにあって」と強調されているのは、
それが人間の努力や精神的な克服によってもたらされ
ないことだからです。教会においては、人種や階級、
国籍、性別は重要な事柄ではないのです。社会の中に
厳然としてある「支配―被支配」の関係が「キリスト
にあって」廃棄されるのです。

パウロはキリストを着ることについて、コリント人へ
の第二の手紙4章10節で次のように述べています。
「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはま
た、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」
キリストを着るとはただキリストの考えに共鳴したり、
真似したりすることではなく、「キリストが私たちの
うちに全く実際的に、最高に現実的に、活動的に生き
て働いて下さること」(ルター)であり、「生きてい
るのは、もはや、わたしではない。キリストが、わた
しのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信
徒への手紙2章20節)で現されているパウロの生き様
に、私たちも招かれているということなのです。
posted by 信徒S at 10:30| 説教要旨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする