2016年02月18日

求めよ、さらば与えられん

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マタイによる福音書 7章7節〜11節

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく
者はあけてもらえるからである。

あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、
石を与える者があろうか。

魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。

このように、あなたがたは悪い者であっても、
自分の子供には、良い贈り物をすることを知っている
とすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、
求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

〜コメント〜
教会に来る以前に、文語訳で覚えていた言葉。
一歩踏み出す勇気を与えられます。(信徒S)
ラベル:会津若松教会
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2016年02月13日

わたしは常に主をわたしの前に置く

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詩篇 第16篇

神よ、わたしをお守りください。
 わたしはあなたに寄り頼みます。
わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、
 あなたのほかにわたしの幸はない」と。
地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。
 おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。
わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、
 その名を口にとなえることをしない。
主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。
 あなたはわたしの分け前を守られる。
測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。
 まことにわたしは良い嗣業を得た。
わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。
 夜はまた、わたしの心がわたしを教える。
わたしは常に主をわたしの前に置く。
 主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
 わたしの身もまた安らかである。
あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、
 あなたの聖者に墓を見させられないからである。
あなたはいのちの道をわたしに示される。
 あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
 あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。

〜コメント〜
会津若松教会の礼拝式文より。(信徒S)
ラベル:会津若松教会
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2016年02月07日

光として来たキリスト

※週報に掲載の説教要旨をブログ用に変換して紹介
しています。聖書の引用は口語訳を使用しています。
(信徒S)

「光として来たキリスト」  八重樫 捷朗 教師

ヨハネによる福音書12章37―50節

〜世界は言葉で創られた――光、命、恵み、真理、愛に
満ちていた〜

金曜日の午前中の祈祷会では創世記を1章から学んでいます。
3〜4節には次のように記されています。「神は「光あれ」と
言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとさ
れた。」まだ地が混沌としていた時に最初に創造されたもの
は「光」であり、それから言葉で世界を形づくり、命を産み
出しました。

 ヨハネによる福音書ではこれを別の表現で描写しています。
初めに言葉があり、この言葉が光であり、命、恵み、真理、
そして愛であった。世界は言葉で創られた――光、命、恵み、
真理、愛に満ちていた。ということになります。しかし現実
の世界は、沈黙、闇、死、搾取、嘘、憎しみに満ちています。
光として来たキリスト、しかし来週から受難節――光と闇の
コントラストが示されています。
 
 本日の聖書箇所は、「わたしは光としてこの世にきた。そ
れは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないよう
になるためである。」(46節)です。8章12節では、
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみの
うちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と語られま
した。

イエス・キリストはこれまで六つのしるし(奇跡)を現しま
した。最初のしるしは、先週お話をしたカナの婚礼の奇跡で
した。さらに役人の息子の癒し、ベトサダの池での癒し、五
千人の給食、盲人の癒し、そしてラザロの復活の六つです。
そのようにして、イエス・キリストはご自分が誰であるかを
示されたにもかかわらず、結局、人々はイエス・キリストを
受け入れませんでした。このことは、当時の人々に限らず、
私たちの心の頑なさを示しているようです。

イエス・キリストご自身が「わたしは光としてこの世にきた」
(46節)とはっきり語られました。イエス・キリストとい
うお方が光そのものです。光が見える、見えないというのは
一種の状態でしょう。イエス様を素直に信じられる時と、そ
うでない時があります。しかし、その光をしっかりと手にす
るということは、状態ではなく決断です。私たちは、この光
を自分のうちにお迎えする。この光と共に歩むという決断を
するのです。洗礼は、「イエス・キリストを自分の光と信じ
ますか」ということです。

エルサレムに迎え入れられたイエスの言葉は、わたしたちに
光としてのイエスを受け入れ、信じるかどうかの決断を迫っ
ています。困難の中でイエス・キリストに救いを求めて、そ
の時は一条の光がそこに見えていた。しかしその困難が過ぎ
去った時には、他にもいろんな光が見えてきた。そうすると、
逆にイエス・キリストの方の光がくすんで見えなくなってし
まった、ということはしばしばあることです。

光として来たキリスト、しかし来週から受難節(闇)に入り
ます。本日の讃美歌511番には、光と闇のコントラストが
示されています。イエス様は、「わたしに従って来る者は、
やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と語
られました。(8章12節)光がはっきり見えているうちに、
しっかりと光をとらえ信じてレント*(受難節)に入りまし
ょう。

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*教会では1年を通してイエスの生涯を覚え過ごします。
12月の誕生(クリスマス)の後、2月頃から十字架に
架かる受難(レント)、4月頃に主の復活(イースター)、
その後、5月頃に聖霊が降った降臨(ペンテコステ)と
続きます。こうした教会独自の暦を教会歴と言います。
(信徒S)
ラベル:会津若松教会
posted by 信徒S at 10:30| 説教要旨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月05日

わたしたちが幼な子であった時には

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コリント人への第一の手紙 第13章11節

わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく
語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考え
ていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしい
ことを捨ててしまった。

〜コメント〜
前に紹介したこちらの聖書箇所。
人は成長すれば、以前とは変わりますが、
変わることを恐れずに、前に進むことの
大切さを、伝道者パウロは述べています。
(信徒S)
ラベル:会津若松教会
posted by 信徒S at 22:52| みことばのフォト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする