2016年02月07日

光として来たキリスト

※週報に掲載の説教要旨をブログ用に変換して紹介
しています。聖書の引用は口語訳を使用しています。
(信徒S)

「光として来たキリスト」  八重樫 捷朗 教師

ヨハネによる福音書12章37―50節

〜世界は言葉で創られた――光、命、恵み、真理、愛に
満ちていた〜

金曜日の午前中の祈祷会では創世記を1章から学んでいます。
3〜4節には次のように記されています。「神は「光あれ」と
言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとさ
れた。」まだ地が混沌としていた時に最初に創造されたもの
は「光」であり、それから言葉で世界を形づくり、命を産み
出しました。

 ヨハネによる福音書ではこれを別の表現で描写しています。
初めに言葉があり、この言葉が光であり、命、恵み、真理、
そして愛であった。世界は言葉で創られた――光、命、恵み、
真理、愛に満ちていた。ということになります。しかし現実
の世界は、沈黙、闇、死、搾取、嘘、憎しみに満ちています。
光として来たキリスト、しかし来週から受難節――光と闇の
コントラストが示されています。
 
 本日の聖書箇所は、「わたしは光としてこの世にきた。そ
れは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないよう
になるためである。」(46節)です。8章12節では、
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみの
うちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と語られま
した。

イエス・キリストはこれまで六つのしるし(奇跡)を現しま
した。最初のしるしは、先週お話をしたカナの婚礼の奇跡で
した。さらに役人の息子の癒し、ベトサダの池での癒し、五
千人の給食、盲人の癒し、そしてラザロの復活の六つです。
そのようにして、イエス・キリストはご自分が誰であるかを
示されたにもかかわらず、結局、人々はイエス・キリストを
受け入れませんでした。このことは、当時の人々に限らず、
私たちの心の頑なさを示しているようです。

イエス・キリストご自身が「わたしは光としてこの世にきた」
(46節)とはっきり語られました。イエス・キリストとい
うお方が光そのものです。光が見える、見えないというのは
一種の状態でしょう。イエス様を素直に信じられる時と、そ
うでない時があります。しかし、その光をしっかりと手にす
るということは、状態ではなく決断です。私たちは、この光
を自分のうちにお迎えする。この光と共に歩むという決断を
するのです。洗礼は、「イエス・キリストを自分の光と信じ
ますか」ということです。

エルサレムに迎え入れられたイエスの言葉は、わたしたちに
光としてのイエスを受け入れ、信じるかどうかの決断を迫っ
ています。困難の中でイエス・キリストに救いを求めて、そ
の時は一条の光がそこに見えていた。しかしその困難が過ぎ
去った時には、他にもいろんな光が見えてきた。そうすると、
逆にイエス・キリストの方の光がくすんで見えなくなってし
まった、ということはしばしばあることです。

光として来たキリスト、しかし来週から受難節(闇)に入り
ます。本日の讃美歌511番には、光と闇のコントラストが
示されています。イエス様は、「わたしに従って来る者は、
やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と語
られました。(8章12節)光がはっきり見えているうちに、
しっかりと光をとらえ信じてレント*(受難節)に入りまし
ょう。

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*教会では1年を通してイエスの生涯を覚え過ごします。
12月の誕生(クリスマス)の後、2月頃から十字架に
架かる受難(レント)、4月頃に主の復活(イースター)、
その後、5月頃に聖霊が降った降臨(ペンテコステ)と
続きます。こうした教会独自の暦を教会歴と言います。
(信徒S)
posted by 信徒S at 10:30| 説教要旨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする