2016年07月30日

平和の祈り(聖フランチェスコ)

stained.jpg
(クリックすると写真が大きくなります。)

主よ、私を平和の器とならせて下さい
憎しみがあるところに愛を
争いのあるところに赦しを
分裂には一致を
疑いあるところに信仰を
誤りあるところに真理を
望みなきところには希望を
暗きには光をもたらすものとして下さい
主よ、慰められるよりも
人々を慰めるものにして下さい
理解されることよりも
理解するものに
愛されることよりも
人々を愛するものとして下さい
それは、私たちが自ら与えることにより受け
赦すことによって赦され
自分のからだを献げ、死ぬことによって
とこしえの生命を得ることができるからです
主キリストによって アーメン

〜コメント〜
会津若松教会の礼拝式文より。(信徒S)
posted by 信徒S at 22:07| 祈りと言葉のフォト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月20日

自分自身を愛すること〜心と体と魂の健康

最近、世間ではお酒を控えたり禁煙したり、カロリー
を気にする人が増えています。『メタボ』という言葉
を耳にする機会も多いのではないでしょうか。日々の
生活に意識して運動を取り入れたり、バランスの良い
食事を心がけるなど、健康指向の動きは望ましいこと
です。

run.jpg

体の健康だけでなく、心の健康もまた大切です。イラ
イラしてストレスをためたり、自分を強く責めて落ち
込むことは、人間関係上も良くないだけでなく、時に
は心身症などの病気を引き起こす原因にもなります。
そこで、自己啓発の本を読んで『イライラしない心構
え』や『ストレス解消法』『上手な人間関係(コミュ
ニケーション)』などを勉強する人もいる程です。

reading.jpg

心と体の健康に関する解説書は、本屋さんに行けば沢
山置いてあります。ですが、『自分が好きになれない、
自分を大切と思えない』と感じるなら、本を読みノウ
ハウを学んでも、実践(努力)し続けることは難しい
ように感じます。……実は心と体の健康維持の秘訣は、
自分自身を愛する(大切に思う)ことにあるからです。

『自分には意味があり、自分は大切な存在』という、
自信(自尊心)は通常、周囲から愛され認められるこ
とで育ちます。多くの人は家族や周りの人から愛情を
受け、自分自身を大切に思う気持ちが生じます。ただ
し、人からの愛は常に与えられるとは限りません。時
には誰も信じられない状況に陥るかもしれません。

umbrella.jpg

そんな時でも、聖書が社会の役立つ本と異なるのは、
「神はあなたを愛しているし、あなたを創った神は、
あなたが生きる意味(計画)を持っている」と告げて
いる点です。以前に聞いた話ですが、牧師がラジオで
「神があなたを愛しているので、私もあなたを愛して
います」と語るのを聞き、『こんな自分でも神は愛し
てるんだ。自分が生きていることに意味があるんだ』
と自分を大切にする生き方を真剣に考えるようになっ
た人がいました。自分を粗末に扱って自暴自棄になる
生き方から、自分の価値に気付き困難でも自分が輝く
生き方を選んだのです。

radio.jpg

すべては自分自身を愛する(大切にする)ことから始
まります。どうか自分自身を愛して下さい。なぜなら、
神があなたを愛しているからです!聖書は現代的に分
かり易くは書かれていませんが、正統的なキリスト教
では、聖書の中で神が人間を愛していることを解き明
かしてくれます。聖書は『魂の解説書』(トリセツ)
なのです。ぜひ、お近くの伝統あるキリスト教会を訪
ねて、魂の健康に役立てて頂きたいと願っています。
(信徒S)

cross.jpg

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。」

(イザヤ書 43章4節:聖書 新改訳c1970,1978,
2003新日本聖書刊行会)

「わたしたちが神を愛したのではなく、
 神がわたしたちを愛して下さって、
 わたしたちの罪のためにあがないの
 供え物として、御子をおつかわしになった。
 ここに愛がある。」

(ヨハネの手紙一 4章10節:聖書 口語訳)
posted by 信徒S at 21:44| 右斜め上自分自身を愛すること | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月10日

絶望から希望へ

※説教要旨をブログ用に変換して紹介します。(信徒S)

「絶望から希望へ」 伝道師 八重樫 捷朗 教師

哀歌3章16節〜33節 

 皆さんは神に敵対するほどの激しい絶望や苦難を経験さ
れたことがあるでしょうか。私は仙台で東日本大震災を体
験し、まさにそのような苦難や絶望を体験した方々を身近
に見てなんとか絶望的な困難にある方々を力づける希望の
メッセージを祈り求めました。

 哀歌は、エルサレムの陥落と破壊という歴史的事件のも
つ意味を明らかにしようとしています。イスラエルが神の
選びの民であることを示すと考えられていたにもかかわら
ず、ことごとく滅びてしまった現実をどう捉えたらよいか。
エレミヤなどによってエルサレムの破滅は予告されていま
した。神の民が神に対して犯した罪の刑罰として神から臨
む災いであることが予言されていましたが、果たして大震
災のような自然災害を神の怒りなどと捉えて被災された方
方に希望を伝えられるでしょうか。

 哀歌の詩人は、神の恵みとあわれみに対する直接的な信
頼を告白し、それに基づいて神に祈り求めています。哀歌
2章ではエルサレム崩壊とバビロン捕囚の悲惨な現状が記
されています。飢餓から子どもの肉を食べた母親、おとめ
も若者たちも全ての人々の受けた苦難の現実、神の怒りを
受けて、苦難と悩みの中にあることを告白しますが、こと
ごとく滅ぼされなかったのは、神の恵みと憐れみによると
哀歌は語ります。人を絶望から立ち直らせる信仰のよりど
ころは主の恵み以外の何物でもない。主のいつくしみは絶
えることがない。私たちが滅びうせなかったのは恵みと憐
れみによる。(哀歌3章22節)

 哀歌の詩人は、この詩の冒頭にありますように「私は
苦しみを見た男」であり、エルサレム崩壊によってもたら
された痛みと苦しみの現実を目の当たりにしてこの詩を詠
んでいます。哀歌2章でのエルサレム崩壊とバビロン捕囚
の悲惨な現状をどう受け止めたらいいのか。神の怒りを受
けて、苦難と悩みの中にあることを告白しますが、ことご
とく滅ぼされなかったのは、神の恵みと憐れみによると詩
人は悟ります。この詩の行き着いたところにおいてこそ、
人はこの詩に希望を見出していくのです。生き延びた者と
して生存者として立っている姿がここにあります。

 「口を塵につけよ」は全面的な服従を現しますが哀歌の
詩人はこの詩の前半で大胆に神を非難しています。人間に
対する神の究極的恵みと痛みは、神に敵対し抗議するしか
出来ない詩人がいます。「ああ、なにゆえ都は独り座って
いるのか、かつては人にあふれていたこの都が」この叫び
は大震災で根こそぎ町を流された民の嘆きにも共通します。

 身近な親族の嘆きを紹介しますと、私の義母は東日本大
震災のとき99歳でした。若い時は看護師として働き、7
人のこどもたちを育てました。苦難続きの生涯で2人の子
に先立たれ夫君は50歳の時に病気で倒れました。99歳
まで気丈に生き、孫たちに囲まれ長男夫婦と暮らしていま
したが大震災が起こりました。家は無事でしたが、繰り返
されるテレビの津波の映像をみて、自分は長生きしすぎた、
人様の役にも立てないと睡眠剤を多量に飲んで自死を図り
ました。幸い一命は取りとめたのですが、何故死なせてく
れなかったかと妻(娘)に何度も訴え続けました。自宅に
引き取り献身的な介護にもかかわらず、何度も娘をせめた
のです。そんな絶望の中に突然に神様の介入がありました。
生き直して見ようとの思いがこみあげてきたそうで、99
歳での受洗に導かれました。この記事は信徒の友でも紹介
されましたが不思議な出来事でした。見違えるように元気
を取り戻し、百歳まで暮らしました。絶望の中からの呼び
かけに神は恵みの光を下さったのだと思います。

 哀歌3章の55節「深い穴の底からの神への呼びかけ」
は詩篇130編のように「深い淵の底」からの神への呼び
かけです。当時の世界観においては「陰府」を指していま
す。天と地と陰府の3層世界を当時の人たちは考えていま
したが、陰府は神から一番遠い光の全くささないところ、
神との交わりの絶たれるところと考えられていました。
創世記の「混沌」と関連し、「陰府」という言葉と同様に、
暗闇や絶望をイメージさせます。しかしその絶望の世界に
神が介入します。深い絶望の淵からの神への呼びかけに神
は応えられ「唐突な感情的反転」が起こります。

 旧約聖書の概念では罪はこの神の恵みを自ら捨てること
であり、人間が自分の力で回復出来る事柄ではない。これ
はただ一方的な神の恵みによることで、私たちはその恵み
によってのみ神を恐れ敬う信仰をもつことが許されていま
す。人が神への祈りが聞かれていないというならば、それ
はその人が神を信じない罪によるものです。しかし神の恵
みは、罪という神に対する負い目をそのまま放置せず、こ
れをないものとして認め、罪にさだめないことにあります。
従って「赦し」は、罪と過ちとで損なわれた神と人間の間
の関係を回復することを意味し、この回復はただ神の赦し
によってのみ可能であることです。

 旧約聖書の時代を経て、幸いにも私たちは旧約聖書と共
に新約聖書も与えられ、イエスの十字架の出来事において、
罪の赦しを受けているとの福音から、いつも神の前に立ち、
主に呼ばわることが可能にされていることを知らされてい
ます。信仰は、神の恵みに満ち溢れている所だけでなく、
神から見捨てられたような所で尚神を呼び求めることです。
その中で、最も遠いはずの神が最も近くにいて下さること
に気がつくことこそ、恵みによる奇跡なのです。
posted by 信徒S at 10:30| 説教要旨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月06日

それって宗教アレルギー?

大学に入学して、初めての新入生歓迎コンパの席でのこと、
自己紹介で同志社1年生の女子が「学部は神学部です」と
言った瞬間、「ゲッ!宗教」との声が別な学部の男子から
上がったそうです。(その男子も同志社(ミッションスク
ール)の学生なので、実はキリスト教(宗教)に関係して
いるのですが。

宗教と聞くと『何か怪しい』『近づくと危険』と条件反射
で感じる人もいるかと思います。でも、自分が極力宗教を
避けていても宗教の方から近づいて来るかもしれませんよ
ね?そんな時、宗教上のトラブルを防ぐワクチン?を1つ
お知らせしたいと思います。

medicine.jpg

それはズバリ「お金を払っても救い(解決)は得られない」
という心構えです。宗教改革者ルターは「人は信仰によって
のみ義とされる(救われる)」と説きました。免罪符を否定
したルターは、お金で買えるアイテムやイベント類を義(正
しい)とせず、宗教を安易な「救いの自動販売機」とはしま
せんでした。このことを覚えて、真剣に生きる意味を求める
時、人は自分らしく生きることが出来るのではないでしょう
か。(信徒S)
posted by 信徒S at 07:00| 信徒のブログ(笑い!?) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月03日

7/2婦人会の親睦会

7/2(土)婦人会の親睦会が、ホテルリステル猪苗代の
ハーブ園で行われました。8名が参加してラベンダーの
香りを楽しみ、美味しいランチを食べて、よい親睦会と
なりました。

DSC_0002.JPG
(ハーブ園の様子です)

翌日の礼拝後のお茶の会で、お土産のブルーベリーを
頂きながら、楽しいエピソードを聞くことが出来ました。
P1060859.jpg
(楽しい親睦会に感謝です

posted by 信徒S at 20:58| 教会行事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする