2016年07月10日

絶望から希望へ

※説教要旨をブログ用に変換して紹介します。(信徒S)

「絶望から希望へ」 伝道師 八重樫 捷朗 教師

哀歌3章16節〜33節 

 皆さんは神に敵対するほどの激しい絶望や苦難を経験さ
れたことがあるでしょうか。私は仙台で東日本大震災を体
験し、まさにそのような苦難や絶望を体験した方々を身近
に見てなんとか絶望的な困難にある方々を力づける希望の
メッセージを祈り求めました。

 哀歌は、エルサレムの陥落と破壊という歴史的事件のも
つ意味を明らかにしようとしています。イスラエルが神の
選びの民であることを示すと考えられていたにもかかわら
ず、ことごとく滅びてしまった現実をどう捉えたらよいか。
エレミヤなどによってエルサレムの破滅は予告されていま
した。神の民が神に対して犯した罪の刑罰として神から臨
む災いであることが予言されていましたが、果たして大震
災のような自然災害を神の怒りなどと捉えて被災された方
方に希望を伝えられるでしょうか。

 哀歌の詩人は、神の恵みとあわれみに対する直接的な信
頼を告白し、それに基づいて神に祈り求めています。哀歌
2章ではエルサレム崩壊とバビロン捕囚の悲惨な現状が記
されています。飢餓から子どもの肉を食べた母親、おとめ
も若者たちも全ての人々の受けた苦難の現実、神の怒りを
受けて、苦難と悩みの中にあることを告白しますが、こと
ごとく滅ぼされなかったのは、神の恵みと憐れみによると
哀歌は語ります。人を絶望から立ち直らせる信仰のよりど
ころは主の恵み以外の何物でもない。主のいつくしみは絶
えることがない。私たちが滅びうせなかったのは恵みと憐
れみによる。(哀歌3章22節)

 哀歌の詩人は、この詩の冒頭にありますように「私は
苦しみを見た男」であり、エルサレム崩壊によってもたら
された痛みと苦しみの現実を目の当たりにしてこの詩を詠
んでいます。哀歌2章でのエルサレム崩壊とバビロン捕囚
の悲惨な現状をどう受け止めたらいいのか。神の怒りを受
けて、苦難と悩みの中にあることを告白しますが、ことご
とく滅ぼされなかったのは、神の恵みと憐れみによると詩
人は悟ります。この詩の行き着いたところにおいてこそ、
人はこの詩に希望を見出していくのです。生き延びた者と
して生存者として立っている姿がここにあります。

 「口を塵につけよ」は全面的な服従を現しますが哀歌の
詩人はこの詩の前半で大胆に神を非難しています。人間に
対する神の究極的恵みと痛みは、神に敵対し抗議するしか
出来ない詩人がいます。「ああ、なにゆえ都は独り座って
いるのか、かつては人にあふれていたこの都が」この叫び
は大震災で根こそぎ町を流された民の嘆きにも共通します。

 身近な親族の嘆きを紹介しますと、私の義母は東日本大
震災のとき99歳でした。若い時は看護師として働き、7
人のこどもたちを育てました。苦難続きの生涯で2人の子
に先立たれ夫君は50歳の時に病気で倒れました。99歳
まで気丈に生き、孫たちに囲まれ長男夫婦と暮らしていま
したが大震災が起こりました。家は無事でしたが、繰り返
されるテレビの津波の映像をみて、自分は長生きしすぎた、
人様の役にも立てないと睡眠剤を多量に飲んで自死を図り
ました。幸い一命は取りとめたのですが、何故死なせてく
れなかったかと妻(娘)に何度も訴え続けました。自宅に
引き取り献身的な介護にもかかわらず、何度も娘をせめた
のです。そんな絶望の中に突然に神様の介入がありました。
生き直して見ようとの思いがこみあげてきたそうで、99
歳での受洗に導かれました。この記事は信徒の友でも紹介
されましたが不思議な出来事でした。見違えるように元気
を取り戻し、百歳まで暮らしました。絶望の中からの呼び
かけに神は恵みの光を下さったのだと思います。

 哀歌3章の55節「深い穴の底からの神への呼びかけ」
は詩篇130編のように「深い淵の底」からの神への呼び
かけです。当時の世界観においては「陰府」を指していま
す。天と地と陰府の3層世界を当時の人たちは考えていま
したが、陰府は神から一番遠い光の全くささないところ、
神との交わりの絶たれるところと考えられていました。
創世記の「混沌」と関連し、「陰府」という言葉と同様に、
暗闇や絶望をイメージさせます。しかしその絶望の世界に
神が介入します。深い絶望の淵からの神への呼びかけに神
は応えられ「唐突な感情的反転」が起こります。

 旧約聖書の概念では罪はこの神の恵みを自ら捨てること
であり、人間が自分の力で回復出来る事柄ではない。これ
はただ一方的な神の恵みによることで、私たちはその恵み
によってのみ神を恐れ敬う信仰をもつことが許されていま
す。人が神への祈りが聞かれていないというならば、それ
はその人が神を信じない罪によるものです。しかし神の恵
みは、罪という神に対する負い目をそのまま放置せず、こ
れをないものとして認め、罪にさだめないことにあります。
従って「赦し」は、罪と過ちとで損なわれた神と人間の間
の関係を回復することを意味し、この回復はただ神の赦し
によってのみ可能であることです。

 旧約聖書の時代を経て、幸いにも私たちは旧約聖書と共
に新約聖書も与えられ、イエスの十字架の出来事において、
罪の赦しを受けているとの福音から、いつも神の前に立ち、
主に呼ばわることが可能にされていることを知らされてい
ます。信仰は、神の恵みに満ち溢れている所だけでなく、
神から見捨てられたような所で尚神を呼び求めることです。
その中で、最も遠いはずの神が最も近くにいて下さること
に気がつくことこそ、恵みによる奇跡なのです。
posted by 信徒S at 10:30| 説教要旨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする