2018年08月25日

人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のよう

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イザヤ書第40章1〜31節

あなたがたの神は言われる、
「慰めよ、わが民を慰めよ、

ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、
その服役の期は終り、
そのとがはすでにゆるされ、
そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を
主の手から受けた」。

呼ばわる者の声がする、
「荒野に主の道を備え、
さばくに、われわれの神のために、
大路をまっすぐにせよ。

もろもろの谷は高くせられ、
もろもろの山と丘とは低くせられ、
高底のある地は平らになり、
険しい所は平地となる。

こうして主の栄光があらわれ、
人は皆ともにこれを見る。
これは主の口が語られたのである」。

声が聞える、「呼ばわれ」。
わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。
「人はみな草だ。
その麗しさは、すべて野の花のようだ。

主の息がその上に吹けば、
草は枯れ、花はしぼむ。
たしかに人は草だ。

草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉は
とこしえに変ることはない」。

よきおとずれをシオンに伝える者よ、
高い山にのぼれ。
よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、
強く声をあげよ、
声をあげて恐れるな。
ユダのもろもろの町に言え、
「あなたがたの神を見よ」と。

見よ、主なる神は大能をもってこられ、
その腕は世を治める。
見よ、その報いは主と共にあり、
そのはたらきの報いは、そのみ前にある。

主は牧者のようにその群れを養い、
そのかいなに小羊をいだき、
そのふところに入れて携えゆき、
乳を飲ませているものをやさしく導かれる。

だれが、たなごころをもって海をはかり、
指を伸ばして天をはかり、
地のちりを枡に盛り、
てんびんをもって、もろもろの山をはかり、
はかりをもって、もろもろの丘をはかったか。

だれが、主の霊を導き、
その相談役となって主を教えたか。

主はだれと相談して悟りを得たか。
だれが主に公義の道を教え、
知識を教え、悟りの道を示したか。

見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、
はかりの上のちりのように思われる。
見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。

レバノンは、たきぎに足りない、
またその獣は、燔祭に足りない。

主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。
彼らは主によって、無きもののように、
むなしいもののように思われる。

それで、あなたがたは神をだれとくらべ、
どんな像と比較しようとするのか。

偶像は細工人が鋳て造り、
鍛冶が、金をもって、それをおおい、
また、これがために銀の鎖を造る。

貧しい者は、ささげ物として
朽ちることのない木を選び、
巧みな細工人を求めて、
動くことのない像を立たせる。

あなたがたは知らなかったか。
あなたがたは聞かなかったか。
初めから、あなたがたに伝えられなかったか。
地の基をおいた時から、
あなたがたは悟らなかったか。

主は地球のはるか上に座して、
地に住む者をいなごのように見られる。
主は天を幕のようにひろげ、
これを住むべき天幕のように張り、

また、もろもろの君を無きものとせられ、
地のつかさたちを、むなしくされる。

彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、
その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、
神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、
わらのように、つむじ風にまき去られる。

聖者は言われる、
「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、
わたしは、だれにひとしいというのか」。

目を高くあげて、
だれが、これらのものを創造したかを見よ。
主は数をしらべて万軍をひきいだし、
おのおのをその名で呼ばれる。
その勢いの大いなるにより、
またその力の強きがゆえに、
一つも欠けることはない。

ヤコブよ、何ゆえあなたは、
「わが道は主に隠れている」と言うか。
イスラエルよ、何ゆえあなたは、
「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。

あなたは知らなかったか、
あなたは聞かなかったか。
主はとこしえの神、地の果の創造者であって、
弱ることなく、また疲れることなく、
その知恵ははかりがたい。

弱った者には力を与え、
勢いのない者には強さを増し加えられる。

年若い者も弱り、かつ疲れ、
壮年の者も疲れはてて倒れる。

しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、
わしのように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、
歩いても弱ることはない。

〜コメント〜
イザヤ書は40章から内容が大きく変わり
ます。ここから後半は、神による回復が
告げられているのです。(信徒S)
ラベル:会津若松教会
posted by 信徒S at 12:28| みことばのフォト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月20日

なぜ悪があるのか?聖書に問う

キリスト教では、人が悪を犯すのは、食べてはいけないと神
から言われた木の実を、蛇にそそのかされて食べてしまった
から、と説明します。(創世記第3章)ですが、そんな危険
な木を置かず、また悪意ある蛇をエデンの園に置かなければ
良かったのではないでしょうか。

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これに対する答えに、人はロボットのように決められたこと
しか出来ない存在ではなく、自由意志という選択の自由が与
えられ、自ら考えたり、決めたり、愛する能力があったのに、
自分の意志で(食べないことも十分出来たのに)食べる方を
選んでしまい、神との約束(禁止事項)を破ったから、悪が
すべての人に入り込む原因(原罪)になったとされています。
……美味しい物に目がくらんで、よせばいいのについ手を出
してしまいカロリーオーバー!……そんな傾向を持つように
なったのも、原罪のせいかもしれませんね。

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以上がキリスト教のオーソドックスな回答です。「だから良
い子のみなさんは約束を守りましょうね」「はーい」と素直
に返事が出来ればいいのですが、「……どうもすっきりしな
い、何かモヤモヤする……」という私のような迷える子羊?
の方は、以下を参考までお読み下さい。

「なぜ、善悪を知る木の実や悪へと誘う蛇がエデンの園に置
かれていたのか?」あれこれ調べたり、考えたりしたのです
が、ふと、あることに気付きました。それはズバリ、『聖書
にその理由は書かれていない』という事実です。書かれて
いない以上、「分からない」のです。では、なぜ書かれてい
ないのでしょう?……多分、人間には到底理解出来ないから
だと思います。

例えば、パソコンやインターネットをヘビやカエル向けに開
発したとします。「便利だから使ってみて!」と与えても、
おそらく使いこなすことも、理解することも出来ないでしょ
う。それは彼らの能力を遥かに超えた代物だからです。この
ように、悪についても人知を遥かに超えており、聖書に書き
たくても書けなかったのかもしれません。さらに言えば、
「なぜ悪があるのか」という問いの答えは、すべて人の憶測
や推測の域を出ないのではないでしょうか。(これもまた、
憶測なのですが。

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他にも、大きな自然災害が起きた際、そのメカニズムについ
て、現代では科学的に説明出来るかもしれません。ですが、
なぜある人が災害に遭わなければならなかったのか、その答
えの本当のところは『誰にも分からない』のではないでしょ
うか。【人には分からない=神のみぞ知る】そのように人は
限界ある存在として創られた被造物であると、聖書は記して
います。人は神に似せて創られましたが、神ではないのです。
(創世記第1章27節)生きる中で分からないことや、理解
を超えたことを体験することがあるのです。

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聖書の中には戦争や災害、貧困、差別、病気、人間の弱さや
欲望や不正など、多くの悪が描かれています。その一方で、
人はどう生きれば良いのか、この世に光はあるのか、傷付き
さまよい歩く人々を光に導くにはどうすれば良いのか等々、
悪から救われる道も示されています。このように聖書は自然
科学の教科書や悪の解説書ではなく、人が悪から救われる為
にはどうすれば良いかを扱った信仰(神への信頼)の書なの
です。(信徒S)

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わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)
ラベル:会津若松教会
posted by 信徒S at 21:09| 右斜め上なぜ悪があるのか? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする