2019年04月19日

神も仏もいない?

学生時代のこと、珍しく先輩にお茶に誘われて
行ってみると、何と宗教の勧誘でした…… 
当時はまだ健全な無神論者?だった私は、ある
質問を先輩にしました。

「神や仏がいるなら、なぜ広島、長崎の原爆を
許したのか、なぜアウシュビッツの虐殺を止め
なかったのか。この世には神も仏もいないので
は?」

それについて、先輩からはっきりとした答えは
なく、二度とお茶に誘われることもありません
でした……(それから数年後、クリスチャンに
なった私にその時の質問がブーメランのように
戻って来るとは思いもしませんでしたが。

この世に人を愛する神がいるのなら、なぜ不幸
や不条理が見られるのか。聖書には様々な理由
やエピソードが記されていますが、万人が納得
するような答えはないように思います。
聖書では、起こってしまった不幸や不条理から、
人はどう救われるのか、どんな償いがされるの
か、トラブルの解明よりも、回復を強調してい
るように見受けられます。

無神論者であった当時、個人的に思ったのは、
例えば戦火の中で生まれる命や、重い病気を持
って生まれる命、多くの人の願いや信仰者の祈
りにも関らず、失われる命があり、これが現実
だという感覚です。

一方で、そうした不条理の一生を終えた後に、
来世のような場所があり、償いを受けることが
なければ、あまりにも不公平ではないか?逆に、
悪に加担してこの世の春を謳歌した人は、死後
そのことを猛烈に悔いて、償うのでなければ、
死んで行った人々が浮かばれないのではないか、
……そんな気持ちも持っていました。

キリスト教は、愛と赦しの宗教ですが、一方で
神はすべてを見ており、この世の悪をそのまま
にせず、最終的には神が人に代わってこの世の
悪を裁く*(解決する)という一面も持っていま
す。放蕩の限りを尽くして、行き詰まっている
ように見える現代社会でも、神に信頼して歩む
人生と、全く意識せずに歩む人生では、未来は
違って来るように思うのです。(信徒S)

〜参考〜
*キリスト教で有名な「毒麦の譬え」は、
衝撃的な譬え話ですが、一人一人の心の
中で起こる悪い思いは、最終的には取り
除かれ、良い性質だけが残ると読み解く
ことも出来るようです。

マタイによる福音書13章25〜30節

人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に
毒麦をまいて立ち去った。

芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦も
あらわれてきた。

僕たちがきて、家の主人に言った、
『ご主人様、畑におまきになったのは、
良い種ではありませんでしたか。どうして
毒麦がはえてきたのですか』。

主人は言った、『それは敵のしわざだ』。
すると僕たちが言った『では行って、それを
抜き集めましょうか』。

彼は言った、『いや、毒麦を集めようと
して、麦も一緒に抜くかも知れない。

収穫まで、両方とも育つままにしておけ。
収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を
集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入
れてくれ、と言いつけよう』」。
ラベル:会津若松教会
posted by 信徒S at 23:36| 信徒のブログ(笑い!?) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする