2016年11月27日

信仰は聞くことによる

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ローマ人への手紙 10章1節〜17節

兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神に
ささげる祈は、彼らが救われることである。

わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかし
するが、その熱心は深い知識によるものではない。

なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を
立てようと努め、神の義に従わなかったからである。

キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、
律法の終りとなられたのである。

モーセは、律法による義を行う人は、その義によって
生きる、と書いている。

しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなた
は心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。
それは、キリストを引き降ろすことである。

また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。
それは、キリストを死人の中から引き上げることである。

では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くに
ある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、
わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、
自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせた
と信じるなら、あなたは救われる。

なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救わ
れるからである。

聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」
と言っている。

ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の
主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下
さるからである。

なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」
とあるからである。

しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めること
があろうか。聞いたことのない者を、どうして信じること
があろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くこ
とがあろうか。

つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と
書いてあるとおりである。

しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。
イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信
じましたか」と言っている。

したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことは
キリストの言葉から来るのである。

〜コメント〜
人は行いではなく、信じて義とされ、救われることが、
プロテスタント信仰の核心です。コリント書でパウロは
どんな行いも愛なしには無に等しいと、告げるのです。
(信徒S)
posted by 信徒S at 17:44| みことばのフォト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする