2017年04月26日

義人はいない、ひとりもいない

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ローマ人への手紙・3章10〜31節

次のように書いてある、
「義人はいない、ひとりもいない。

悟りのある人はいない、
神を求める人はいない。

すべての人は迷い出て、
ことごとく無益なものになっている。
善を行う者はいない、
ひとりもいない。

彼らののどは、開いた墓であり、
彼らは、その舌で人を欺き、
彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。

彼らの足は、血を流すのに速く、

彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

そして、彼らは平和の道を知らない。

彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

さて、わたしたちが知っているように、すべて
律法の言うところは、律法のもとにある者たち
に対して語られている。それは、すべての口が
ふさがれ、全世界が神のさばきに服するためで
ある。

なぜなら、律法を行うことによっては、すべて
の人間は神の前に義とせられないからである。
律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも
律法と預言者とによってあかしされて、現された。

それは、イエス・キリストを信じる信仰による
神の義であって、すべて信じる人に与えられる
ものである。そこにはなんらの差別もない。

すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の
栄光を受けられなくなっており、

彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・
イエスによるあがないによって義とされるので
ある。

神はこのキリストを立てて、その血による、
信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。
それは神の義を示すためであった。すなわち、
今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のが
しておられたが、

それは、今の時に、神の義を示すためであった。
こうして、神みずからが義となり、さらに、
イエスを信じる者を義とされるのである。

すると、どこにわたしたちの誇があるのか。
全くない。なんの法則によってか。行いの法則に
よってか。そうではなく、信仰の法則によって
である。

わたしたちは、こう思う。人が義とされる
のは、律法の行いによるのではなく、信仰による
のである。

それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。
また、異邦人の神であるのではないか。確かに、
異邦人の神でもある。

まことに、神は唯一であって、割礼のある者を
信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰
のゆえに義とされるのである。

すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を
無効にするのであるか。断じてそうではない。
かえって、それによって律法を確立するのである。

〜コメント〜
有名な信仰義認(信仰によって人は義とされる)
箇所ですが、完全な善人は誰一人としていない
こと、誰もが不完全な存在であると、パウロは
述べています。それ故に迷い出た羊のような者
を、神は招くのです。(信徒S)
posted by 信徒S at 23:38| みことばのフォト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする