2019年01月20日

「さあ、ここから始めよう」

「さあ、ここから始めよう」
ルカによる福音書24章28〜35節
安部 勉 教師(会津若松教会・第11代牧師)

※説教要旨をブログ用に変換して紹介しています。
(信徒S)

本日の聖書は弟子たちの歩みを通して、それまで
の「人生の歩み」を思い起こすように示されてい
ます。彼らは復活のイエスを前に自らの歩みを思
い起こし振り返ります。しかし、そこで語られて
いる言葉はイエスへの期待、そして失望でした。
彼らは「いったい自分たちの今までの人生とは何
だったのだろう」との思いの中にいたでしょう。
でも、その彼らから「言葉」を引き出したのは誰
だったでしょう。

エマオでのやり取りは弟子たちに復活のイエスが
彼らの人生を振り返るよう誘ったとも言えるでし
ょう。でもイエスに問われた彼らはまだ「自分た
ちの歩み」に意味を見出すことはできなかったの
です。落胆と失望の中にありました。なお、共に
イエスと食する中で思い起こしていったのです。
イエスと共に過ごした日々、喜びばかりでなく、
悲しみや辛さも。でも、彼らを導きリードし、
パンと盃を差し出す方との出会いに彼らは「今を
生きる」ことの喜びに出会ったことでしょう。
イエスが蘇り、共に歩み、永遠のいのちへと誘っ
てくださるとの確信を。

今日、18年ぶりに皆さんと共に過ごした日々を
思い起こす中に、皆さんとの出会いこそが備えら
れた道であったとの確信、一つ一つの出来事が
「今」のために備えられたことを私たちはイエス
の言葉と共に、そして共に分かち合う聖餐の中に
見出すよう導かれているのです。今までの歩んだ
道を思い起こすこと、それは「さあ、ここから始
めよう」と未来へと誘うこと。私たちは今を生き
る者として、そして未来にバトンを引き継ぐもの
として、先達の歩み、自分たちの歩みを重ねる中
にいつも共にいてくださったイエスを思い起こし
たいと願います。創立記念、今日は新たな節目の
日として。そしてこれからの歩みが始まります。
主が繰り返し「共にいる」との呼びかけのうちに、
主の祝福のうちにあると信じます。
ラベル:会津若松教会
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2018年12月16日

「愛を追い求めなさい」樋野 興夫氏

「愛を追い求めなさい」
コリント人への第一の手紙14章1〜4節
樋野 興夫氏
順天堂大学医学部病理学教授 

※説教要旨をブログ用に変換して紹介しています。
(信徒S)

癌哲学外来では、お茶を飲みながら30分から
1時間位、話をしますが、曖昧なことは曖昧に
答えるのが科学的な態度です。医師によって
癌患者さんに皆違うことを言う。曖昧なことに
結論を言おうとするから異なる。グレーゾーン
に確信を持って語ることが出来るのは、愛しか
ない。物事が解決しなくても『解消』する。
悩みはあっても優先順位を下げる、これは愛に
よってなされるのです。

どうして我々は癌になるのか、どうして我々の
寿命は120年なのか。アダムとイブがなぜ蛇
の誘惑に負けたのか。(神の)言葉をそのまま
イエス、ノーで答えればよかったのに、付加と
削除をした。これが遺伝子の突然変異(細胞の
癌化)です。

人類最初の質問は「あなたは、どこにいるのか
?」(創世記3章9節)その答えはイザヤ書
(6章8節)の「私はここにいます。私を遣わ
して下さい」これが役割・使命です。そうする
と人生いばらの道、されど宴会になります。
(*箴言15章15節が基の言葉)また、コリン
ト書(10章13節)にはその人間が耐えられ
ない苦しみは与えられないとあります。雨は誰
にでも降る。しかし、傘を差すか、レインコー
トを着るか、家の中に入るか、これが自由意志
です。(WHY)なぜは問えないが、(HOW)
いかに対応するかこれが人生の分かれ道です。

精神科医の神谷美恵子は43歳で癌になり、生
きがいを求める中でハンセン病の患者と出会い、
最初に学んだのはどうして同じ状況にあるのに、
この人は悩み苦しみ、この人は喜びに満たされ
ているのか、その違いはどこから生まれるのか。
苦しみの中、悲壮感でいると相手も辛い。苦し
みの状況『にもかかわらず』前向きに生きる姿
(尊厳)に接する時、人は救われるのです。
(信徒要約)
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*午後の講演会「がん哲学〜学んだことを語り
伝える〜」の様子です。樋野先生、ご多忙な
中、会津若松教会へお越し頂き感謝です。
ラベル:会津若松教会
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2018年01月28日

「日々の悩みの中に」

「日々の悩みの中に」
マタイによる福音書8章14〜17節
八重樫 芙美惠 教師

※説教要旨をブログ用に変換して紹介しています。
(信徒S)

『それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、
そのしゅうとめが熱病で、床についているのを
ごらんになった。そこで、その手にさわられると、
熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもて
なした。夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を
大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉
をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおい
やしになった。これは、預言者イザヤによって
「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたし
たちの病を負うた」と言われた言葉が成就するため
である。』(マタイ8:14-17)

与えられた聖書箇所を通して、日常の悩み多い家庭
の隅々にまで主は来られるということを、聖書を通
して説き明かしたいと思います。本日の箇所は山上
の説教後の主イエスの第三の癒しにあたります。第
一は重い皮膚病の人の癒し、第二は百人隊長の僕の
癒し、第三の癒しはペテロの姑、つまりペテロの妻
の母の出来事にあたります。

ペテロは主イエスの弟子になった時に既に結婚して
おり、妻も伝道に参加しておりました。(Tコリン
ト9:5)現代の私たちには理解しにくい事ですが、
女性は成人男性に比べ、人数に数えられないなどの
扱いを受けておりました。ですから、この第三の母
への癒しは小さな出来事に見えて、実は特別な意味
が込められています。主イエスが母に手を触れられ
ると熱は去ります。(15節)「家庭の主」である
イエス様が入って来られ、様々抱えている問題を共
に担われ、共に心配して解決へと導かれ、癒された
のです。

私の人生をふり返ってみますと、東日本大震災の後
には母との同居があり、震災のショックから生きる
希望を失くした母と、神学校の学びを中断せざるを
得なくなった私とが、共に途方に暮れ、母娘共に光
が見出せない中に立たされていました。

その時に慰めと励ましになったのは、同じ神学校に
通っていた若い友の訪問や、当時、目白の神学校で
学んでいた主人が車で2時間かけて駆けつけ、車椅
子の母をいろいろなところへ連れ出してくれた姿で
した。母も徐々に元気を取り戻し、私たちは改めて
「家庭の主」の光を感じました。「私たちの患いを
負い、私たちの病を担った」主イエスの姿をみたの
です。

私たちが、現実の苦悩の中に踏みとどまって、
主イエスを待つことが出来ますように、
祈りの力をお与え下さい。


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ラベル:会津若松教会
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2017年01月15日

「人はパンのみに生くるにあらず」

「人はパンのみに生くるにあらず」
マタイによる福音書4章1〜4節 八重樫 捷朗 教師

※説教要旨をブログ用に変換して紹介しています。
(信徒S)

主イエスは宣教を始める前に、私たちと同じよう
に大きな誘惑を経験しなければなりませんでした。
悪魔を3節で「誘惑する者」と言い換えられている
ように、悪魔は賢い助言者のように近づいて来て、
私たちを墜落させ、神から引き離そうとする力と
言えるでしょう。聖書はその人格的な力を悪魔と
呼んでいます。

イエスを試みた悪魔は、難しい議論を持ちかけた
のではなく、非常に現実的な問題を突き付けまし
た。断食して空腹を覚えたイエスに「神の子なら、
これらの石がパンになるように命じたらどうだ」
と働きかけ、それに主イエスは申命記8章3節から
の聖書の言葉で答えられました。「人はパンのみ
で生きるにあらず」有名な聖句です。それでは私
たちは何によって生きているのでしょうか。

荒野の40年(出エジプト記)を通して神様はマナ
という天からのパンを与えられ、「この40年の間、
あなたのまとう着物は古びず、足がはれることも
なかった」と聖書は語ります。「我が恵み汝に足
れり」ですが、現代を生きる私たちは溢れる物質
にその有り難さや感謝の気持ちを忘れがちです。
神が備えて下さった毎日のパンを、感謝の祈りを
もって食べているのでしょうか。神がお許しにな
らなければ、私たちは寿命を一日たりとも伸ばす
ことはできません。神様からパンを与えられるこ
とによって私たちは神を忘れるのではなく、むし
ろ神に立ち返っていくこと、すなわちパンと命を
約束する「神の口から出る1つ1つの言葉によって
生きる」という申命記の後半の言葉こそ主イエス
の御心なのです。

私たちはいろいろなものに取り囲まれています。
イエス・キリストの言葉から目を離さず、悪魔の
誘惑から逃れるためにも、神様の言葉に目を向け、
心を開いて生きていきましょう。
ラベル:会津若松教会
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2016年12月23日

まことの光を求めて【アマールと夜の訪問者】

「まことの光を求めて」 八重樫 捷朗 教師
クリスマス・キャンドル礼拝メッセージ

※説教要旨をブログ用に変換して紹介しています。
(信徒S)

最初に救い主の誕生を祝い拝みに来たのは、祭司長
たちでも聖書に詳しい律法学者たちでもなく、遠い
東の国の異邦人である占星術の学者たちでした。
学者たちは天上においてまばゆいばかりの光の星に、
ただならぬものを受けとめたに違いありません。彼
らはその知識と経験のすべてを傾けて、今までとは
違う新しい王が生まれるということを星の動きに読
みとりました。彼らは行く先を知らずして、新しい
真理に向かう道を一歩踏み出しました。

学者たちはまずユダヤの都エルサレムに向かい、
ヘロデの宮殿を訪れます。しかしエルサレムでは王
として生まれた幼子に出会うことはできませんでし
た。彼らの予測、判断、知恵、知識、努力などその
すべてはイエスとの出会いとして実りません。星に
導かれながらも人間的な、あまりにも地上における
価値判断に身をゆだねて道を辿ってきた彼らの挫折
が示されています。しかし不安と恐れ、戸惑いと
混迷、挫折の中で昔から伝えられてきた聖書の語り
かけが、行くべき所を新たに示し出しました。

聖書に従った学者たちが目にしたのは、飼い葉桶に
眠るイエスの姿、それはいかなる意味においても強
さ、力、権威というものとは縁のない姿をした「メ
シアの姿」でした。彼らはことごとく自分の思惑が
ひっくり返されるにもかかわらず「喜びにあふれて」
幼子を拝み、彼らの宝物(黄金・乳香・没薬)を捧
げます。そこに真の礼拝が生まれたのです。三人の
学者の捧げ物はもともと彼らの商売道具で、これま
で自分が大切にしてきた物、かけがえのない物を主
の前に差し出して生きるということです。

「アマールと夜の訪問者」というオペラをご存知で
しょうか。(ジャン=カルロ・メノッティ作曲)
このオペラはクリスマスの大切な捧げ物についての
物語です。救い主を求めて旅をする三人の学者が、
アマールという足の不自由な少年と母親が暮らす貧
しい家に一晩の宿を求めて訪れます。やがて三人の
学者が寝静まった頃、母親は貧しさから彼らが持つ
宝物(黄金)に手を伸ばし、見つかってしまいます。
宝物は学者たちが救い主へ捧げる大切な物でした。
それを聞いたアマールは自分も何か大切な物を救い
主へ捧げたいと、足代わりの杖を学者へ差し出した
時、アマールの足は癒されたという物語です。

ある神学者は、信仰というのは人間が自分自身の元
にいることをやめて、自分を中心とすることをやめ
て、自分の外にある中心に向かって生きること、す
なわち「自分自身から目をあげて生きること」だと
言いました。自分を捧げて主のために生きること、
自分中心の生き方と決別して、かけがえのない自分
を主の前に差し出して、救い主イエスを自分の人生
の拠点として新しく生きるということです。この世
で人として生き給うたイエスが、われわれの人生を
今も導いていることを信じて、新しくスタートした
いと思います。
ラベル:会津若松教会
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2016年07月10日

絶望から希望へ

※説教要旨をブログ用に変換して紹介します。(信徒S)

「絶望から希望へ」 伝道師 八重樫 捷朗 教師

哀歌3章16節〜33節 

 皆さんは神に敵対するほどの激しい絶望や苦難を経験さ
れたことがあるでしょうか。私は仙台で東日本大震災を体
験し、まさにそのような苦難や絶望を体験した方々を身近
に見てなんとか絶望的な困難にある方々を力づける希望の
メッセージを祈り求めました。

 哀歌は、エルサレムの陥落と破壊という歴史的事件のも
つ意味を明らかにしようとしています。イスラエルが神の
選びの民であることを示すと考えられていたにもかかわら
ず、ことごとく滅びてしまった現実をどう捉えたらよいか。
エレミヤなどによってエルサレムの破滅は予告されていま
した。神の民が神に対して犯した罪の刑罰として神から臨
む災いであることが予言されていましたが、果たして大震
災のような自然災害を神の怒りなどと捉えて被災された方
方に希望を伝えられるでしょうか。

 哀歌の詩人は、神の恵みとあわれみに対する直接的な信
頼を告白し、それに基づいて神に祈り求めています。哀歌
2章ではエルサレム崩壊とバビロン捕囚の悲惨な現状が記
されています。飢餓から子どもの肉を食べた母親、おとめ
も若者たちも全ての人々の受けた苦難の現実、神の怒りを
受けて、苦難と悩みの中にあることを告白しますが、こと
ごとく滅ぼされなかったのは、神の恵みと憐れみによると
哀歌は語ります。人を絶望から立ち直らせる信仰のよりど
ころは主の恵み以外の何物でもない。主のいつくしみは絶
えることがない。私たちが滅びうせなかったのは恵みと憐
れみによる。(哀歌3章22節)

 哀歌の詩人は、この詩の冒頭にありますように「私は
苦しみを見た男」であり、エルサレム崩壊によってもたら
された痛みと苦しみの現実を目の当たりにしてこの詩を詠
んでいます。哀歌2章でのエルサレム崩壊とバビロン捕囚
の悲惨な現状をどう受け止めたらいいのか。神の怒りを受
けて、苦難と悩みの中にあることを告白しますが、ことご
とく滅ぼされなかったのは、神の恵みと憐れみによると詩
人は悟ります。この詩の行き着いたところにおいてこそ、
人はこの詩に希望を見出していくのです。生き延びた者と
して生存者として立っている姿がここにあります。

 「口を塵につけよ」は全面的な服従を現しますが哀歌の
詩人はこの詩の前半で大胆に神を非難しています。人間に
対する神の究極的恵みと痛みは、神に敵対し抗議するしか
出来ない詩人がいます。「ああ、なにゆえ都は独り座って
いるのか、かつては人にあふれていたこの都が」この叫び
は大震災で根こそぎ町を流された民の嘆きにも共通します。

 身近な親族の嘆きを紹介しますと、私の義母は東日本大
震災のとき99歳でした。若い時は看護師として働き、7
人のこどもたちを育てました。苦難続きの生涯で2人の子
に先立たれ夫君は50歳の時に病気で倒れました。99歳
まで気丈に生き、孫たちに囲まれ長男夫婦と暮らしていま
したが大震災が起こりました。家は無事でしたが、繰り返
されるテレビの津波の映像をみて、自分は長生きしすぎた、
人様の役にも立てないと睡眠剤を多量に飲んで自死を図り
ました。幸い一命は取りとめたのですが、何故死なせてく
れなかったかと妻(娘)に何度も訴え続けました。自宅に
引き取り献身的な介護にもかかわらず、何度も娘をせめた
のです。そんな絶望の中に突然に神様の介入がありました。
生き直して見ようとの思いがこみあげてきたそうで、99
歳での受洗に導かれました。この記事は信徒の友でも紹介
されましたが不思議な出来事でした。見違えるように元気
を取り戻し、百歳まで暮らしました。絶望の中からの呼び
かけに神は恵みの光を下さったのだと思います。

 哀歌3章の55節「深い穴の底からの神への呼びかけ」
は詩篇130編のように「深い淵の底」からの神への呼び
かけです。当時の世界観においては「陰府」を指していま
す。天と地と陰府の3層世界を当時の人たちは考えていま
したが、陰府は神から一番遠い光の全くささないところ、
神との交わりの絶たれるところと考えられていました。
創世記の「混沌」と関連し、「陰府」という言葉と同様に、
暗闇や絶望をイメージさせます。しかしその絶望の世界に
神が介入します。深い絶望の淵からの神への呼びかけに神
は応えられ「唐突な感情的反転」が起こります。

 旧約聖書の概念では罪はこの神の恵みを自ら捨てること
であり、人間が自分の力で回復出来る事柄ではない。これ
はただ一方的な神の恵みによることで、私たちはその恵み
によってのみ神を恐れ敬う信仰をもつことが許されていま
す。人が神への祈りが聞かれていないというならば、それ
はその人が神を信じない罪によるものです。しかし神の恵
みは、罪という神に対する負い目をそのまま放置せず、こ
れをないものとして認め、罪にさだめないことにあります。
従って「赦し」は、罪と過ちとで損なわれた神と人間の間
の関係を回復することを意味し、この回復はただ神の赦し
によってのみ可能であることです。

 旧約聖書の時代を経て、幸いにも私たちは旧約聖書と共
に新約聖書も与えられ、イエスの十字架の出来事において、
罪の赦しを受けているとの福音から、いつも神の前に立ち、
主に呼ばわることが可能にされていることを知らされてい
ます。信仰は、神の恵みに満ち溢れている所だけでなく、
神から見捨てられたような所で尚神を呼び求めることです。
その中で、最も遠いはずの神が最も近くにいて下さること
に気がつくことこそ、恵みによる奇跡なのです。
ラベル:会津若松教会
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2016年05月29日

最高を目指して

<5月29日説教要旨>
「最高を目指して」
 高橋 力 教師(会津高田教会協力牧師)
 フィリピの信徒への手紙3章12〜14節
※週報に掲載の説教要旨をブログ用に変換して紹介
しています。

使徒パウロが目指したのは、自分の力で自分を拠所に
して目標を目指すことではないのです。隅谷 三喜男
という有名な先生が書いた本に、信仰は相対的なもの
とあり、驚きました。私たちは信仰は絶対だと思い、
絶対に揺るがない信仰を持たなければならないと考え
ているが、右に行ったり左に行ったり、熱心だったり、
そうでなかったり、揺れ動くものだと言うのです。そ
れは長い糸の振り子のようなものです。振り子が動き
を止めない拠所、それは結び目です。天井の結び目に
しっかり結び付けられていること、信仰の結び目、拠
所はイエス・キリストなのです。神が私たちの救いの
為に、イエス・キリストを十字架にかけてまで、罪を
赦して下さったのです。罪とは、逆らうこと、関係が
切れてしまうことです。神の愛よりも、世の中の別な
ものを拠所として、心を向けてしまうことです。神と
人との関係をイエス・キリストは十字架の罪の贖いに
よって、修復して下さった。このことを最高と言いた
い。最高というのは、今いるところから遠いところに
あります。手を伸ばせばすぐ手に入る身近なところに
はないのです。

先日(2016年5月27日)オバマ大統領が広島で核のな
い世界を目指そうと言いました。アメリカの大統領と
して最も言いにくいことを、決意として口にしました。
平和は軍事力によらず、外交によってなされなければ
ならない。これは大変な努力を要します。時には命を
懸けなければなりません。1963年8月28日、人種差別
反対のワシントン大行進で、キング牧師は差別されて
いる子供たちが、肩を並べて同じ学校に行く日を夢見
ていると述べました。その後、彼は暗殺されますが、
その夢は沢山の人たちに受け継がれ希望や勇気を与え
たのです。最高の夢を一人一人の生き方でも問い直さ
なければならないと感じます。この日本の国にも最高
を目指す夢があります。それは平和憲法です。(前文
朗読)ここにも夢が描かれています。これはお金を払
ってもすぐ手に入りません。私たちの心を注がねばな
らず、目的に達するまでの道のりは大変長く、その道
のりで味わう苦労や辛さにも諦めず向かって行く必要
があります。

使徒パウロは大のイエス反抗者でした。キリスト教徒
の迫害を行う彼は、律法により自分の力で神の救いに
与ろうとしましたが、それを努めれば努めるほど、自
分の破れを感じていました。パウロにイエス・キリス
トの言葉が臨むと、新しい道が備えられ、教会は数を
増やします。神からの働きかけによって、すべては始
まっているのです。私たちは一体何が神様の御心なの
か、私たちが目指していかなければならないことは何
か、一人一人問いかけられています。その問いかけが、
祈りの時です。主の祈りに日毎の糧を与えて下さいと
あります。これは単に食べ物を得るだけでなく、神様
の御用の為に用いられ、生きる者にして下さいという
決心を現す祈りです。毎週の礼拝で主の祈りをそのよ
うな思いで祈りたいと思います。(教会員要約)

〜コメント〜
会津の地で半世紀以上、諸教会で教え様々な社会活動
をされて来た高橋 力先生の交換説教。その大きな働き
の源に信仰の力を感じました。(信徒S)
ラベル:会津若松教会
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2016年04月17日

2016年特別説教〜水谷 誠牧師(同志社大学理事・神学部長)

2016年4月17日主日礼拝にて、同志社大学理事で、
神学部長の水谷 誠牧師より、特別説教がありまし
た。前半は青年時代のご自身の進路や同級生それぞ
れが抱える苦労について語られ、とても示唆に富む
お話でした。(特に10代後半の方は是非どうぞ!

後半は、みことばやルターの神学的な解釈などを、
分かり易く説いて下さいました。神学部教授として、
日々聖書を学問的に客観的に捉えている水谷先生で
すが、みことばを素直に読んだ青春時代の体験が、
今も信仰として先生の中にあることが、とても印象
的でした。以下ご覧下さい。

「祈りとともに」聖書箇所・テサロニケT5章16節〜24節
ラベル:会津若松教会
posted by 信徒S at 23:36| 説教要旨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月07日

光として来たキリスト

※週報に掲載の説教要旨をブログ用に変換して紹介
しています。聖書の引用は口語訳を使用しています。
(信徒S)

「光として来たキリスト」  八重樫 捷朗 教師

ヨハネによる福音書12章37―50節

〜世界は言葉で創られた――光、命、恵み、真理、愛に
満ちていた〜

金曜日の午前中の祈祷会では創世記を1章から学んでいます。
3〜4節には次のように記されています。「神は「光あれ」と
言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとさ
れた。」まだ地が混沌としていた時に最初に創造されたもの
は「光」であり、それから言葉で世界を形づくり、命を産み
出しました。

 ヨハネによる福音書ではこれを別の表現で描写しています。
初めに言葉があり、この言葉が光であり、命、恵み、真理、
そして愛であった。世界は言葉で創られた――光、命、恵み、
真理、愛に満ちていた。ということになります。しかし現実
の世界は、沈黙、闇、死、搾取、嘘、憎しみに満ちています。
光として来たキリスト、しかし来週から受難節――光と闇の
コントラストが示されています。
 
 本日の聖書箇所は、「わたしは光としてこの世にきた。そ
れは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないよう
になるためである。」(46節)です。8章12節では、
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみの
うちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と語られま
した。

イエス・キリストはこれまで六つのしるし(奇跡)を現しま
した。最初のしるしは、先週お話をしたカナの婚礼の奇跡で
した。さらに役人の息子の癒し、ベトサダの池での癒し、五
千人の給食、盲人の癒し、そしてラザロの復活の六つです。
そのようにして、イエス・キリストはご自分が誰であるかを
示されたにもかかわらず、結局、人々はイエス・キリストを
受け入れませんでした。このことは、当時の人々に限らず、
私たちの心の頑なさを示しているようです。

イエス・キリストご自身が「わたしは光としてこの世にきた」
(46節)とはっきり語られました。イエス・キリストとい
うお方が光そのものです。光が見える、見えないというのは
一種の状態でしょう。イエス様を素直に信じられる時と、そ
うでない時があります。しかし、その光をしっかりと手にす
るということは、状態ではなく決断です。私たちは、この光
を自分のうちにお迎えする。この光と共に歩むという決断を
するのです。洗礼は、「イエス・キリストを自分の光と信じ
ますか」ということです。

エルサレムに迎え入れられたイエスの言葉は、わたしたちに
光としてのイエスを受け入れ、信じるかどうかの決断を迫っ
ています。困難の中でイエス・キリストに救いを求めて、そ
の時は一条の光がそこに見えていた。しかしその困難が過ぎ
去った時には、他にもいろんな光が見えてきた。そうすると、
逆にイエス・キリストの方の光がくすんで見えなくなってし
まった、ということはしばしばあることです。

光として来たキリスト、しかし来週から受難節(闇)に入り
ます。本日の讃美歌511番には、光と闇のコントラストが
示されています。イエス様は、「わたしに従って来る者は、
やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と語
られました。(8章12節)光がはっきり見えているうちに、
しっかりと光をとらえ信じてレント*(受難節)に入りまし
ょう。

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*教会では1年を通してイエスの生涯を覚え過ごします。
12月の誕生(クリスマス)の後、2月頃から十字架に
架かる受難(レント)、4月頃に主の復活(イースター)、
その後、5月頃に聖霊が降った降臨(ペンテコステ)と
続きます。こうした教会独自の暦を教会歴と言います。
(信徒S)
ラベル:会津若松教会
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2015年12月25日

キャンドルサービス「メッセージ」(動画)

2015年12月23日クリスマス・キャンドル
サービスにて、八重樫伝道師によるクリスマスの
メッセージ。その後に讃美歌とお祈りが続きます。
ご覧下さい。


メッセージ「愛は神から」2015.12.23 会津若松教会
ラベル:会津若松教会
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