2015年04月26日

慰めの共同体目指して

※2015年度の会津若松教会の主題は「慰めの共同体を
目指して」です。総会の日の説教要旨はこの主題を現して
います。(信徒S)

「慰めの共同体目指して」 伝道師 八重樫捷朗

コリントT 12章12−31節

教会は神の招きに応えて集められた人の群れ(共同体)
です。『キリストの体なる教会』というパウロの教会観
は有名です。

1つのキリストの命に生かされる教会は、1つの部分の
苦しみを共有する群れでなくてはいけません。1つが痛
んでいれば、皆で同じ気遣いをそこに注ぐ群れでなくて
はいけません。

あるいは逆に、1つの喜びを皆で分かち合う群れでなけ
ればならないのです。1つの命によって生かされている
とはそういうことであり、それがパウロが言わんとする
所です。

キリストの身体である教会共同体において、それぞれが
互いに配慮をし、とりなしをすること、常に心を開いて
いることが出来るような、相互に与え受け取ることが出
来る場所とは、どのような場所でしょうか。

パウロによると、このような場所は「キリストにおいて」
又は「キリストの身体」といった空間的範疇を用いて語
っています。「キリストにおいて」とは、新共同訳で
「キリストに結ばれて」と表現されているように、互い
に共に苦しむことも、共に喜ぶことにも心を開き続けて
いる空間のことです。

コリントT・12章26節に「1つの部分が苦しめば、
すべての部分が共に苦しみ、1つの部分が尊ばれれば、
すべての部分が共に喜ぶのです」とあるような空間、
共に喜び共に苦しむことで、喜びが倍加するような場所
が自由に開放されることです。

キリストの身体である教会共同体が、この互いに互いの
ために生きる空間を開いたままで保つには、キリストの
死と復活を共同で祝い、主の死を宣べ伝え、聖書の物語
を語り続けて行くことです。

愛を持って互いに仕え合う教会。そのような1つのキリ
ストの命の通う、互いが互いのことを同じ気遣いや配慮
を持ってキリストの命溢れる教会を建て上げたいと願い、
私たちは年間標語に定めたのです。
ラベル:会津若松教会
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2015年04月12日

「エマオから始まる新しい道」

※八重樫 捷朗 伝道師が今年4月から、会津若松教会
の教師として就任されました。以下、イースターでの説教
要旨をご紹介します。(信徒S)

「エマオから始まる新しい道」 伝道師 八重樫捷朗

ルカ24章13−35節

イエスがエルサレムで十字架にかかり、死んで葬られた
後、失望と驚きの中にあって、この出来事について語り
合いながら、エマオという村に向かって歩く二人の弟子
がいました。

聖書には「イエスが近づいて来て、彼らと一緒に歩いて」
とありますが、彼らは「イエスと認めることが出来なかっ
た」ようです。

そこでイエスは彼らに質問して、何が事柄の核心なのか
を彼ら自身で再確認するように導かれ、その上でこの出
来事こそ、聖書に記されている救い主キリストの受難と
栄光を表わす内容そのものではないか、と「説き明かさ
れた」のです。

それでも尚二人はその説き明かす人がイエスご自身とは
悟らず、彼を「強いて引きとめ一緒にお泊り下さい」と
お願いし、「イエスは彼らと泊まるために家に入られた」
のです。

食卓でイエスが「パンを取り、祝福して裂き、彼らに渡
しておられるうちに、彼らの目が開けてそれがイエスで
あることがわかった。すると御姿が見えなくなった。彼
らは互いに言った」のです。「道々お話になったとき、
また聖書を説き明かして下さったとき、お互いの心が内
に燃えたではないか。」

今日も主イエスは人生の歩みを歩いている私たちに近づ
いてきて、一緒に歩いて下さいます。たとえ絶望の中に
あっても問題を整理させ、聖書を説き明かして私たちの
心を内に燃えさせて下さるのです。

エマオへの旅路において起こったパン裂きによる復活者
(キリスト)の現存と、旅人の弟子たちによる復活者
(キリスト)の体験、そして認知は、イエス以後の宣教
する教会における聖餐式の意味でもあると思われます。

食卓でのイエスの行動は、ルカの当時の教会に、ユダヤ
人と異邦人のキリスト教的な、交わりへの神学的根拠を
提供しているのです。このような1つの食卓の交わりと
してのキリスト教は、それぞれの土地で、土着の文化的
タブーに挑戦し、人々を解放する働きを与えてきたと思
うのです。
ラベル:会津若松教会
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