2017年06月19日

NEWこの小さい者のひとりに

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マタイによる福音書・10章40〜42節

あなたがたを受けいれる者は、わたしを受け
いれるのである。わたしを受けいれる者は、
わたしをおつかわしになったかたを受けいれ
るのである。

預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、
預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人
を受けいれる者は、義人の報いを受けるで
あろう。

わたしの弟子であるという名のゆえに、この
小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませ
てくれる者は、よく言っておくが、決して
その報いからもれることはない」。

〜コメント〜
マタイ10章は、神に仕える使徒たちへ語った
重要な個所ですが、小さな働きでも愛の為に
行うなら、神はそれを決して忘れないのです。
(信徒S)
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2017年05月14日

わたしがあなたがたを選んだ【信徒奨励より】

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〜コメント〜
5/14の信徒奨励(証し)の中で、石田兄弟
は、かつて「自分が信仰を選んだ」という
思いが強かったと告白しています。

ある時、幼子が親の手の指を握って歩いて
いて、うっかりその指を離して転んでしま
います。すると親は幼子を優しく起こし、
その手を包み込む様に握り直して、再び歩
き出しました。

その姿に「あなたがたが私を選んだのでは
ない。私があなたがたを選んだのである」
という聖句が思い出され、信仰的な衝撃を
受けたといいます。

この親子の様に、私たちが神様の手を握っ
ている(選んでいる)つもりが、実は神様
の方が私たちを愛して、握っていて下さっ
ていると気付かされたのです。

……私たちが神様を愛するより先に、神様
が私たちを愛し、共におられるのです。
(信徒S)

(参考箇所)
ヨハネによる福音書15章12〜17節

わたしのいましめは、これである。わたし
があなたがたを愛したように、あなたがた
も互に愛し合いなさい。

人がその友のために自分の命を捨てること、
これよりも大きな愛はない。

あなたがたにわたしが命じることを行う
ならば、あなたがたはわたしの友である。

わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ば
ない。僕は主人のしていることを知らな
いからである。わたしはあなたがたを友
と呼んだ。わたしの父から聞いたことを
皆、あなたがたに知らせたからである。

あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだのである。
そして、あなたがたを立てた。それは、
あなたがたが行って実をむすび、その実
がいつまでも残るためであり、また、
あなたがたがわたしの名によって父に求
めるものはなんでも、父が与えて下さる
ためである。

これらのことを命じるのは、あなたがた
が互に愛し合うためである。
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2017年04月26日

義人はいない、ひとりもいない

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ローマ人への手紙・3章10〜31節

次のように書いてある、
「義人はいない、ひとりもいない。

悟りのある人はいない、
神を求める人はいない。

すべての人は迷い出て、
ことごとく無益なものになっている。
善を行う者はいない、
ひとりもいない。

彼らののどは、開いた墓であり、
彼らは、その舌で人を欺き、
彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。

彼らの足は、血を流すのに速く、

彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

そして、彼らは平和の道を知らない。

彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

さて、わたしたちが知っているように、すべて
律法の言うところは、律法のもとにある者たち
に対して語られている。それは、すべての口が
ふさがれ、全世界が神のさばきに服するためで
ある。

なぜなら、律法を行うことによっては、すべて
の人間は神の前に義とせられないからである。
律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも
律法と預言者とによってあかしされて、現された。

それは、イエス・キリストを信じる信仰による
神の義であって、すべて信じる人に与えられる
ものである。そこにはなんらの差別もない。

すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の
栄光を受けられなくなっており、

彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・
イエスによるあがないによって義とされるので
ある。

神はこのキリストを立てて、その血による、
信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。
それは神の義を示すためであった。すなわち、
今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のが
しておられたが、

それは、今の時に、神の義を示すためであった。
こうして、神みずからが義となり、さらに、
イエスを信じる者を義とされるのである。

すると、どこにわたしたちの誇があるのか。
全くない。なんの法則によってか。行いの法則に
よってか。そうではなく、信仰の法則によって
である。

わたしたちは、こう思う。人が義とされる
のは、律法の行いによるのではなく、信仰による
のである。

それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。
また、異邦人の神であるのではないか。確かに、
異邦人の神でもある。

まことに、神は唯一であって、割礼のある者を
信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰
のゆえに義とされるのである。

すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を
無効にするのであるか。断じてそうではない。
かえって、それによって律法を確立するのである。

〜コメント〜
有名な信仰義認(信仰によって人は義とされる)
箇所ですが、完全な善人は誰一人としていない
こと、誰もが不完全な存在であると、パウロは
述べています。それ故に迷い出た羊のような者
を、神は招くのです。(信徒S)
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2017年03月28日

すべての訓練は、喜ばしいものとは思われず

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へブル人への手紙12章11節

すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは
思われず、むしろ悲しいものと思われる。
しかし後になれば、それによって鍛えられる
者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

〜コメント〜
苦しみのない人生はあり得ず、生きていれば
誰でも様々な苦しみや悲しみ、困難に出会い
ます。そして辛く感じますが、それだけで終
わらず、それによって開ける人生があること
を、聖書は告げているのです。(信徒S)
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2017年03月04日

災ではなく、平安を与えよう

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エレミヤ書29章11〜14節

主は言われる、わたしがあなたがたに対
していだいている計画はわたしが知って
いる。それは災を与えようというのでは
なく、平安を与えようとするものであり、
あなたがたに将来を与え、希望を与えよ
うとするものである。

その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、
来て、わたしに祈る。わたしはあなたが
たの祈を聞く。

あなたがたはわたしを尋ね求めて、わた
しに会う。もしあなたがたが一心にわた
しを尋ね求めるならば、

わたしはあなたがたに会うと主は言われ
る。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、
あなたがたを万国から、すべてわたしが
あなたがたを追いやった所から集め、か
つ、わたしがあなたがたを捕われ離れさ
せたそのもとの所に、あなたがたを導き
帰ろうと主は言われる。

〜コメント〜
祖国滅亡を嘆き悲しむ預言者エレミヤを、
神は決して見捨てず、救いの計画を約束
したのです。(信徒S)
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2017年02月16日

ひとりでも悔い改めるなら

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ルカによる福音書・第15章1〜10節

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こう
として近寄ってきた。

するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、
「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」
と言った。

そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者が
いたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹
を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけ
るまでは捜し歩かないであろうか。

そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、

家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたし
と一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけ
ましたから』と言うであろう。

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとり
でも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九
人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、
天にあるであろう。

また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその
一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて
家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さ
ないであろうか。

そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを
呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。な
くした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとり
でも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこび
があるであろう」。

〜コメント〜
他の人のことではなく、自分自身の問題として、
イエスは語りかけているのです。(信徒S)
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2017年01月16日

新しい歌を主にむかってうたえ

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詩篇・第96篇

新しい歌を主にむかってうたえ。
全地よ、主にむかってうたえ。

主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。
日ごとにその救を宣べ伝えよ。

もろもろの国の中にその栄光をあらわし、
もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。

主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、
もろもろの神にまさって恐るべき者である。

もろもろの民のすべての神はむなしい。
しかし主はもろもろの天を造られた。

誉と、威厳とはそのみ前にあり、
力と、うるわしさとはその聖所にある。

もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、
栄光と力とを主に帰せよ。

そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。
供え物を携えてその大庭にきたれ。

聖なる装いをして主を拝め、
全地よ、そのみ前におののけ。

もろもろの国民の中に言え、
「主は王となられた。
世界は堅く立って、動かされることはない。
主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。

天は喜び、地は楽しみ、
海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、

田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。
そのとき、林のもろもろの木も
主のみ前に喜び歌うであろう。

主は来られる、地をさばくために来られる。
主は義をもって世界をさばき、
まことをもってもろもろの民をさばかれる。

〜コメント〜
会津若松教会・主日礼拝「招詞」より(信徒S)
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2016年12月03日

神はわれらの避け所また力である

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詩篇・第46篇 1節〜11節

神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。

このゆえに、たとい地は変り、
山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。

たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
そのさわぎによって山は震え動くとも、
われらは恐れない。

一つの川がある。
その流れは神の都を喜ばせ、
いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。

神がその中におられるので、都はゆるがない。
神は朝はやく、これを助けられる。

もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、
神がその声を出されると地は溶ける。

万軍の主はわれらと共におられる、
ヤコブの神はわれらの避け所である。

来て、主のみわざを見よ、
主は驚くべきことを地に行われた。

主は地のはてまでも戦いをやめさせ、
弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。
わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、
全地にあがめられる」。

万軍の主はわれらと共におられる、
ヤコブの神はわれらの避け所である。

〜コメント〜
不安で心がいっぱいになる時があります。
詩人は自らの心に語り静めるように、詩を
詠んだのではないでしょうか。(信徒S)
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2016年11月27日

信仰は聞くことによる

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ローマ人への手紙 10章1節〜17節

兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神に
ささげる祈は、彼らが救われることである。

わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかし
するが、その熱心は深い知識によるものではない。

なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を
立てようと努め、神の義に従わなかったからである。

キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、
律法の終りとなられたのである。

モーセは、律法による義を行う人は、その義によって
生きる、と書いている。

しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなた
は心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。
それは、キリストを引き降ろすことである。

また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。
それは、キリストを死人の中から引き上げることである。

では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くに
ある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、
わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、
自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせた
と信じるなら、あなたは救われる。

なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救わ
れるからである。

聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」
と言っている。

ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の
主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下
さるからである。

なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」
とあるからである。

しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めること
があろうか。聞いたことのない者を、どうして信じること
があろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くこ
とがあろうか。

つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と
書いてあるとおりである。

しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。
イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信
じましたか」と言っている。

したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことは
キリストの言葉から来るのである。

〜コメント〜
人は行いではなく、信じて義とされ、救われることが、
プロテスタント信仰の核心です。コリント書でパウロは
どんな行いも愛なしには無に等しいと、告げるのです。
(信徒S)
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2016年10月18日

口から出るものが人を汚すのである

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マタイによる福音書・15章11節、17〜20節

口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、
口から出るものが人を汚すのである」。

口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、
そして、外に出て行くことを知らないのか。

しかし、口から出て行くものは、心の中から出て
くるのであって、それが人を汚すのである。

というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、
不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てく
るのであって、

これらのものが人を汚すのである。

〜コメント〜
ユダヤ社会では、今でも食べ物に関するルール
とタブーがありますが、余計な事をつい言って
しまう方が、問題が大きいようです。(信徒S)
posted by 信徒S at 07:06| みことばのフォト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする