から言われた木の実を、蛇にそそのかされて食べてしまった
から、と説明します。(創世記第3章)ですが、そんな危険
な木を置かず、また悪意ある蛇をエデンの園に置かなければ
良かったのではないでしょうか。

これに対する答えに、人はロボットのように決められたこと
しか出来ない存在ではなく、自由意志という選択の自由が与
えられ、自ら考えたり、決めたり、愛する能力があったのに、
自分の意志で(食べないことも十分出来たのに)食べる方を
選んでしまい、神との約束(禁止事項)を破ったから、悪が
すべての人に入り込む原因(原罪)になったとされています。
……美味しい物に目がくらんで、よせばいいのについ手を出
してしまいカロリーオーバー!……そんな傾向を持つように
なったのも、原罪のせいかもしれませんね。

以上がキリスト教のオーソドックスな回答です。「だから良
い子のみなさんは約束を守りましょうね」「はーい」と素直
に返事が出来ればいいのですが、「……どうもすっきりしな
い、何かモヤモヤする……」という私のような迷える子羊?
の方は、以下を参考までお読み下さい。
「なぜ、善悪を知る木の実や悪へと誘う蛇がエデンの園に置
かれていたのか?」あれこれ調べたり、考えたりしたのです
が、ふと、あることに気付きました。それはズバリ、『聖書
にその理由は書かれていない』という事実です。

いない以上、「分からない」のです。では、なぜ書かれてい
ないのでしょう?……多分、人間には到底理解出来ないから
だと思います。
例えば、パソコンやインターネットをヘビやカエル向けに開
発したとします。「便利だから使ってみて!」と与えても、
おそらく使いこなすことも、理解することも出来ないでしょ
う。それは彼らの能力を遥かに超えた代物だからです。この
ように、悪についても人知を遥かに超えており、聖書に書き
たくても書けなかったのかもしれません。さらに言えば、
「なぜ悪があるのか」という問いの答えは、すべて人の憶測
や推測の域を出ないのではないでしょうか。(これもまた、
憶測なのですが。


他にも、大きな自然災害が起きた際、そのメカニズムについ
て、現代では科学的に説明出来るかもしれません。ですが、
なぜある人が災害に遭わなければならなかったのか、その答
えの本当のところは『誰にも分からない』のではないでしょ
うか。【人には分からない=神のみぞ知る】そのように人は
限界ある存在として創られた被造物であると、聖書は記して
います。人は神に似せて創られましたが、神ではないのです。
(創世記第1章27節)生きる中で分からないことや、理解
を超えたことを体験することがあるのです。

聖書の中には戦争や災害、貧困、差別、病気、人間の弱さや
欲望や不正など、多くの悪が描かれています。その一方で、
人はどう生きれば良いのか、この世に光はあるのか、傷付き
さまよい歩く人々を光に導くにはどうすれば良いのか等々、
悪から救われる道も示されています。このように聖書は自然
科学の教科書や悪の解説書ではなく、人が悪から救われる為
にはどうすれば良いかを扱った信仰(神への信頼)の書なの
です。(信徒S)

わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)
ラベル:会津若松教会